2003.10.27 東京都三鷹
――先生の作品を読んでいると、人間とは理解しあえないものだ、といったようなメッセージを 感じることがあるんですが。
それは、マンガのテーマとして、ありますね。世相として、ひとはわかりあえるとか、 がんばろうとか、そういうものばっかりだったでしょ、一時期。
――いまだにありますけどね、根強く。たとえば、J-POPの世界に(笑)。
ただ、ぼくは天邪鬼な性分だからね。
――でも、単に世間へのアンチテーゼってことではないような気がします。骨があるような。
柄谷行人(*8)の『探求1』には凄く影響受けています。 その中でのヴィトゲンシュタイン(*9)についての解説は、すごくわかりやすかった。
――どういった解説なんですか?
彼がヴィトゲンシュタインの言ったことを解説しているんだけど、ひとはわかりあえないのが基本で、 何かの間違いで、論理の中に、飛躍があって、それでコミュニケーションが起こると。
――誤解と誤解が出会うというわけではないんですか?
というよりも、論理だけではモノローグだということなんだよね。コミュニケーションってのは、 本来、言葉の通じない他者と出会って、飛躍があって、意思が通じ合う。 そういったプロセスがあるんじゃないか、そういった構造のものなんじゃないか、という話。
――おもしろいですね。それって外国へ行くと実際に体験するものかもしれない。
そう、外国にいて、外国の言葉の中で、物を考えた人たちの言うことはすごくわかりやすい。 ヴィトゲンシュタインとか、パスカル(*10)とか。
――いつごろから、そういった本を読まれるようになったんですか。
大学の後半になってからかな。とりわけ、'80年代半ば頃読んだ、『探求1』からは凄く影響受けてます。
――'80年代後半と聞くと、ニューアカと呼ばれる流行がありましたが、関係ありますか?
その前からヴィトゲンシュタインは、凄く好きだった。だから、とても入り込めて、柄谷の 解説がとてもおもしろかった。ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』が最近、岩波文庫になったよ。
――ヴィトゲンシュタインはどんなことを言ったひとなんですか。
哲学以前の物の道理みたいなことです 「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という有名なことばがあって。
――ええ。
「語りえない」ってことは一番大事なんだけど、それは言葉にできないから、語りえない。 「語りえること」なら、それは言葉にできるだろう。 たとえば、文学とか、芸術とか、それ以外にも言葉にならないことが大事なんだ。 しかし、それは言葉で語ることはできない、という不可能性。 すごくおおざっぱに言うとそういったことかな。
――山本先生は、漫画家という立場だと、そういうものの考え方は創作するうえでかなりベースとなる思想ではないですか? もちろんマンガという表現には、セリフも絵も、どちらもあるわけですけど。
マンガのような表現をするさいに、いちばん適してる考え方じゃないかな。 ただ、そういう教えに従うわけじゃなくてね。「あ、これが物の道理なんだな」って納得したというか。
――興味深いお話ですね。
ヴィトゲンシュタイン後期の思想は、屋台骨は同じなんだけど、ちょっと変わってきて、 それもやはり、柄谷行人の解説を読んで、よくわかったかな
――どういった感じの思想なんですか
たとえば「ひとは、私的な規則に従うことはできない。」という命題。
――それは、個人的な条件ではなくて、ひとには共通の条件があるってことですか
要するに、わたしが正しいと思っていることと、実際に正しいのは違う 「わたしが正しいことをしてる」って言うのと、「実際に正しいことをしてる」ってのは違う。 簡単にいうと、他者が決定するってこと。 ひとは自立的にものごとを決められないってことだね。他者との言語ゲームの中で 決まってゆくっていう。それが物の道理だな、って思った。
――個人的な価値判断は当てにならない?
うーん、たとえば、連合赤軍の人たちも、自分の道理で「正しい道を歩んでる」って思ってたけど、 実際にそれが正しい行動かっていうと、違う。別物でしょ。
――そうですね。日常でも、ひとりだと、思ってることと、行動が乖離しがちになりますね。
ものごとの価値については、他者とのコミュニケーションがあって、初めて判断できること なんだ、って気づくのは、大切かもしれない。
――他者性ってことですよね。
自分の中のモノローグだけだと何も解決しない。他者が存在しないところでは 価値判断できない。可能性としては、身内でみんなが、モノローグを垂れ流している、っていう場合もあるね。 かならずしも、ひとりだから、他者が存在しないとは限らない。 同様に複数の人間がいても、他者が存在しない場合もあるね。
――今の話を伺っていて、『きさくなあの子』(*11)という作品で、マンガ家のところに、女の子が やってきて、セックスをして、最後、「帰ってきてほしい?」みたいなことを訊いて、マンガ家は 「どっちでもいいよ。俺は寝るよ」みたいなことを言いますよね。
どうせ帰ってこないんだろ、みたいな感じの結末だったね。
――ああいった執着の無さ、乾いた感じは読んでいてとてもおもしろいです。
執着しているひとを描くのは苦手だから、描かないね。
――山本先生の作品では、人間関係の軋轢を描くというよりは、ふっと交点を経て、だんだん すれ違って離れていくみたいな感じが多いな、と思うんです。
理屈で言うとさ、人間同士はコミュニケーションできないんだけど、なぜか コミュニケーションできてるよね、っていう。そのギャップがおもしろい。
――ええ。
そのギャップがマンガの中でうまく描けたときは気持ちいい。論理からの飛躍が成功した、ってことなんだろうね。
――それにしても、先生の中では、ヴィトゲンシュタインがずいぶん大きいんですね。
うん。最初荒俣宏(*12)の本で、彼のことを知って、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」? 「うーん、カッコいい!!」と思って。
――ふふふ。
荒俣宏が書いた『理科系の文学史』という本があって、それにヴィトゲンシュタインの話が出てきたと思う。
――彼が言葉じゃ語れないものがあるよ、って言いたいのは、「ひとよ思慮深くあれ」ということなんでしょうか。
「言葉じゃ語れないものがある」っていう主張が重要なんだけど、ことばでは「語りえぬもの」を 指し示すことしかできないよね。っていう話だね。形而上学全体を否定するような過激な意見なんだけど。
――ヴィトゲンシュタインには、言語への深い懐疑があるように感じます。
もともと彼は数学の人なんだけどね。最初は、工学畑で、ヘリコプターの設計をしたくて 数学を始めたら、論理数学みたいなのがおもしろくなっちゃって、論理学に行ったというような。
――先生ご自身は、数学に興味を持たれたりしたんですか?
数学が得意だったの。両親ふたりとも、数学の先生で、中学までの数学は得意で、勉強しなくてもわりといい点取れていた。 ただ、高校に入って、ガタッと数学できなくなって、あきらめました。微分積分とか、まったくダメだったね。
――文系になったのは、高校に入ってから?
そう、筒井康隆とか読み始めてね。先生に「お願いします!」って言って、理系から文系に変えてもらった。
――ヴィトゲンシュタインに至るまでの具体的な経緯はあったんですか
印象的なのは、マーチン・ガードナー(*13)の数学パズルみたいな本を読んで、すごくおもしろくて。「わたしはうそをつく」とか。
――クレタ人のパラドクス(*14)ですね。
そうそう。
――数学者とか、論理学とかやっている人は、一般には「冷たいかな」という印象をもたれてるかもしれないけれど、 論理って、おもしろいですよね。けっこう熱い世界だと思います。
おもしろいよ。ものすごく極論すればね、音楽も、小説も含めて、表現ってもの全部が 「わたしはうそをついている」ってパラドクスに還元できるかな、って思ったこともあって。 間違えてないと思うんだよね、この考え方は(笑)。
――パラドクスって、論理が循環するわけですよね。
そう、そこで、論理がぐるぐる回って運動が起こって、ものごとが動き始める。 表現はね、「わたしがほんとうのことを言っている」って言っちゃうと、そこで止まっちゃう。 クレタ人のパラドクスに、ラッセルのパラドクス(*15)そういったものが好きだったね。
――記号論理学(*16)の世界ですか。
数学的論理学、というか。集合論とか、無限に段階があるとか、整数全体の数の大きさと、実数全体の数の大きさが違う、 みたいな、そういった話を、講談社ブルーバックスで読むのが好きだった時期があった。
――大学生でしたか?
大学の後半ぐらいだね。そういった本をわくわくしながら読んでた。 だからといって、数学きちんとやろうとか、そういう気にはならなかったけどね(笑)。
――そうですか。
『Blue』(*17)に入っている「なんだって7days」で主人公の男が「がば」って起きるところ覚えてる?
――ええ、覚えてます。
あのTシャツにさ、ωのω乗のω乗の、ω乗のω乗…って、記号があるんだけど、 あれは「超限数」ってのをあらわす有名な記号なんですよ。 なんか自己主張したかったんだねー、きっと(笑)。